あらすじ
信濃国、藤代藩五万石――
土砂降りの雨の中、お春28歳は娘のお玉5歳を背負って山の麓にある寺子屋を訪れる。お春は庄屋の宗右衛門から教導の加川慎一郎30歳の手助けをするように言いつけられて来た。子供たちを教えていた慎一郎がお春たちに気付いて、初めて顔を向けた時、お春は思わず息を詰める。慎一郎の右顔は醜く赤黒くただれていた。慎一郎が近付いて来るとお玉は泣き出してしまった。「あなたですね。私の右腕になって下さるのは」
慎一郎は子供たちから「化け物先生」と呼ばれていた。その顔だけでなく、右腕も火傷のために指が開かなかった。そのため、講読は出来ても、綴り方は教えられない。お春の仕事は、筆を持つ慎一郎の右手になることだった。お春は仙台藩の足軽の妻だったが、夫を病で亡くし、お玉を連れて、遠縁にあたる宗右衛門を頼って身を寄せた。若い娘なら慎一郎の異形に恐れをなすだろうが、お春ならと宗右衛門が見込んだのである。
慎一郎は自分に厳しいが子供たちにも厳しかった。次第にその指導にお春は反発する。「右手が駄目なら、左手で筆をお持ちになればいい」そして、ついに子供に手を上げた慎一郎と衝突して寺子屋を出ると決めるが、翌日、千代や伍助ら子供たちの前で、慎一郎はお春に自分の非を改め、これからも自分の右手であってくれと頼む。その深夜、黙々と左手で書く稽古をしている慎一郎の姿をお春は見た。
かつて、加川慎一郎は大坂の適塾で学び、その才を認められて大筒組の組頭補佐に抜擢された。組頭・多田群兵衛の娘・詩織との婚儀も決まった。そんな矢先、藩軍の大演習で旧式の大砲が破裂し、砲兵二人と共に慎一郎は大火傷を負ってしまう。何とか一命は取り留めたものの、詩織は慎一郎の姿を見るのも避け、破談を申し出てきた。慎一郎に嫁ぎたいと自ら親に申し出たほどの詩織の変わり様に慎一郎は、心の扉を閉めてしまう。
武士として刀を握ることも出来なくなった今、慎一郎は侍の世界から逃げるように城下を出て、山に籠って独り暮らしを始めたが、噂を聞きつけた庄屋の宗右衛門に乞われて、長く教導不在となっていた寺子屋を託された。
百姓の家からお春が李の苗木を貰ってきた。「三年経てば、子供たちに美味しい李を食べさせてあげられます」慎一郎は李を寺子屋の庭に植えると削った板に『李塾』と左手で書いた。李は春に花を咲かせ、秋にはすっぱい実を実らせる。
しかし、ある日、裏の森で左手だけで刀を素振りする慎一郎を見かけて、お春は不安を抱く。筆を持つためだけではないような気がした。
薩摩藩の支援を受けた赤報隊が藤代藩領にやってきた。彼らは野盗と化していたが、藤代藩は見て見ぬふりを通した。伍助の父は畑仕事に使う馬を略奪しようとする赤報隊に抗い、藤代藩士の見ている前で斬り捨てられる。伍助が父親の仇を討とうと慎一郎の刀を持ち出すが、慎一郎は止めて、伍助を柱に括ってしまう。伍助は泣きながら「おくびょうもの!」と慎一郎を罵る。